スーツより先に喪服を買う人生

 2015年5月11日、午前7時40分、祖父が永眠しました。

 私はしあわせ者で、22歳になろうというのに葬式に参列したことがありません。 

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 私は父方の祖父母が経営する小さな酒屋に生まれました。ずらりと並んだ酒瓶や、無骨なレジマシーン、次々と大人たちが来店する酒屋は、幼い私にとって格好の遊び場でした。まだ自分の背より高いレジ台の下にしゃがみこんでは、彼らが働く姿を見上げたものです。小学校に入学してすぐ、両親とともに現在の家に引っ越してから、彼らとは一緒に暮らしていません。 

 とは言っても、引越し先の家と酒屋は目と鼻の先で、私は子どもの頃の大半をそこで過ごしました。

 小学校が終わるとランドセルを揺らして酒屋へ帰り、週末には祖父母と川の字で眠りました。彼らは遅くまで働くので、今日こそ起きて待っていようと思うのですが、いつも気がつくと布団の中で驚きました。

 

 「おじいちゃん、嫌い!」とは、幼き日の私の言葉です。

 好きなものを嫌いと言い、愛着のある人にちょっかいをかける祖父のコミュニケーションが、まだ理解できなかった頃のことです。

 遠足の帰りに母親を乗せて、軽トラで迎えに来てくれたことがありました。仕事仲間から借りたらしい軽トラは、取手をぐるぐる回すと窓が開きました。母がドアを閉める前に、ふざけて少しだけ発進して、驚かせていたのを子供心に覚えています。

 いつかは私が祖母の鏡台に貼ったシールを、祖父がからかって剥がすので、怒ったこともありました。けれど、私が本当に気に入っていたシールは、いまでも祖母の鏡台に貼られたままです。

 夜、祖父の配達に付いていったこともありました。荷台に酒瓶を乗せた自転車を押す祖父と、彼の隣を歩く私に月がついてきました。

 

 私が中学に入学する頃、祖父母は40年ほど営んだ酒屋を畳み、伯母と3人で足立区へと引っ越していきました。

 最初は父の車に乗って、家族で遊びに行っていましたが、車を手放してからは足が遠のき、しばらくは電車を乗り継いで顔を出していた私も、高校生になって地下アイドルの仕事を始めると、毎日が好奇心をくすぐられることの連続で、自然と足が遠のきました。

 それでも正月は必ず、私たち家族と祖父母と伯母で過ごしました。生まれてからの22年間、それ以外の過ごし方を知りません。

祖父は魚をさばくことができるので、毎年お重には彼が築地で買い付けた魚が、つやつやとひしめきあっていました。母と私は、中でも鮭の酢漬けを気に入っていて、これは料理上手な母が何度か試行錯誤しましたが、祖父の味にはなりませんでした。

 

 彼らが引っ越してからは、祖母よりも祖父と会う機会のほうが増えました。というのも、彼がかつて配達に使っていた自転車で、恐ろしいことを始めたせいです。

足立区から埼玉県へ走り、煎餅を大量に買い込んでは、そのまま下北沢にある我が家まで走ってきて、お茶の1杯も飲み終わらないうちに、再び自転車でとんぼ返りするようになったのです。

 いつも連絡せずに急に来るので自宅に誰もおらず、大学から帰宅すると居間に大量の煎餅が置きっぱなしになっていることも何度かありました。後期高齢者である彼のどこに、そんな気力があったのか、今を以てして謎ですが、祖父とはここ数年このように付き合ってきたのです。

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 今年の正月、話題はもうすぐ大学を卒業する私の進路に向いていました。就職先をまだ決めていなかったためです。どう考えても(考えなくても)まともに就職出来る時期ではなかったのですが、その時はまだ地下アイドルを生業にしようとは、ちらとも思っていませんでした。

 それなので、祖母から「あんたは商売人の孫だからねえ」と微笑まれても、彼らの孫であることが誇らしいばかりで、自分まで自営業に就くなんて考えてもみなかったのです。会話の横で、黙々と栗きんとんを食べていた祖父の考えは読み取れませんでした。もちろん、わずか数ヵ月後には、この世からいなくなることも、です。

 

 祖父が亡くなる前日、私は南国にいました。

 結局、地下アイドルを生業に選んだものの、春先には早くもスケジュールをパンクさせかけていました。ついでにこの職種にありがちな話ですが、精神を失調した人に執着されていて限界だったのです。空気のように遍在するネットと、日本語から逃れたく、誰にも知らせず飛行機に飛び乗りました。

 つかの間の逃避旅行は素晴らしく、私は帰りの飛行機で、遊園地から放り出された子どものように泣きました。入国審査待ちの長蛇の列に並び、恐る恐るケータイを開くと、大量の仕事のメールとともに、母からのメッセージが飛び込んできました。「おじいちゃん、今夜っていうのも、なくはないって」

 

 予想以上に入国審査に時間がかかり、成田空港から予定していた電車を逃しました。その時間に最も自宅に早く着くルートは、乗り換え駅が祖父の最寄り駅の近くだったのです。私は、いまでもとても不思議ですが、自宅よりも近い祖父母の家には行かず帰宅しました。そのまま私は祖父と会うことはなく、翌朝彼は帰らぬ人となりました。

 

 私は最期まで心のどこかで祖父は死なないと信じていました。これからの人生に祖父が存在しない時間はありえないと思っていました。

 私が南国に逃げている間、祖父は病から逃げられずにいました。何も食べられず、水すら飲めず、酸素さえ人工的に吸入するしかありませんでした。歩けず、立ち上がることも、横になることも辛く、最後に測った血圧と心拍数は低すぎて機械では感知できなかったそうです。

 理屈ではどういう状態かわかっていたのに、私は一度も使っていない車椅子や、来年も一緒に行くと約束していた御柱祭りのことばかり考えていました。

 

 生前、お見舞いに行った弟が私の進路を伝えると、「あいつはちゃんとやってくだろうな」と話したそうです。祖父の働いている姿を見上げていた私が、いつしか働いている姿を見られていました。

 私がお見舞いに行った日、別れ際に「真面目にやれよ」と言いました。それが祖父ときちんと交わした最後の会話です。

 

 今日、スーツより先に喪服を買いました。

 私は自営業の22歳で、祖父はもうこの世におらず、「おじいちゃん、嫌い!」は、いつしか家族の語り草となり、もちろん私は彼が大好きです。

 

* * *


 以下は、今年の正月には元気だった祖父に異変が起きてから逝去するまで、私が個人的に記録していたメモです。ひとつの文章にまとめようと試行錯誤しましたが、ふたつの理由で断念しました。

 ひとつは、私生活の感情が、姫乃たまのフィルターを通ってしまうのを避けられなかったこと。ふたつめは、祖父が生きる世界にいた私の感情を、そうでない世界に生きる私が忠実にまとめるのは困難であったことです。

 上記の理由から、最低限の誤字を訂正するだけに留めて、全文掲載することにしました。しかし、このメモが個人的な散文であることに変わりはなく、人様にお見せするようなものではないことを頭の隅に置いていただけると幸いです。

【2015年2月】

2月2日

 月刊DMMにFAプロ特集の原稿を書いていたら、おじいちゃんが来た。〆切が近すぎてまったく話せず。いつもより長居して「もう下北沢までは自転車で来れないかもしれないな」と言って帰ってった。ママとふたり、玄関先で見送ってから首をかしげる。風邪か。

 2月20日

 大学の卒業確定と、おじいちゃんの肺がんを知った。家族で知らないの私だけだった。足だけ熱湯に浸かりながら冷水を浴びせられてるような、奇妙な感覚。ベッドが空いてる病院がなくて、まだ入院してないらしい。おばあちゃんの癌が完治したせいか、おじいちゃんにか弱いイメージがないせいか、焦りと現実感がない。

2月25日

 眠りが浅くておじいちゃんの夢をみた。おばあちゃんに電話すると、おじいちゃんに聞こえないように小声で「落ち込んでるみたい」という。大病したことない人だからなあ。/仕事進まず、請求書一枚書くのに一時間かかる。

2月26日

 おたぽるに「姫乃たまの耳の痛い話 第22回」入稿。帰り道、急におじいちゃんのガンのことが気になる。私が結婚したり、子どもを産んだりする時、おじいちゃんはもういない可能性があるのか。そう思うと初めて涙がこぼれた。

【3月】

3月2日

 お見舞い。路面電車しか走ってないへんぴな場所。食欲がないとは聞いてたけど、20キロくらい痩せてたのと、あまりに弱気になってたので驚いた。「来てくれてありがとう」とか初めて聞いた。甘いものは食べられるらしく、直前まで取材を受けていた小学館でいただいたチョコレートを一緒に食べる。お姉ちゃん(注:伯母のこと)と、病院近くの蕎麦屋に寄って、「あと10年ちょっとは生きるんだから、いまのうちに大病してもらってよかったかもね」と話す。 

3月4日

 唯一、別名でライターとして契約していた会社に退職届だす。一方的に送られてきた退職届は、級数が馬鹿にでかくて、誤字脱字だらけで自己都合みたいなことが書かれてた。大学も会社も所属する場がなくなっていく。

おじいちゃんが病室に泊まっていけという。肺に管が刺さっている人とシングルベッドで寝るなんて、新婚初夜以上に緊張しそう。快諾。事情を伝えるべく母に電話して、「あれ、どちらさんだっけ?」と呆けた振りをして驚かせていた。

「お前はじいさんふたりいるから、片方死んでもいいだろ」と言う。「だめだよ。私と麻生(注:弟)どっちか死んだら嫌でしょ」と答えると、バツの悪そうな顔をして「一緒に暮らしてたから、情が移るんだな」と呟いた。なぜかマスクの中に涙が流れた。

仕事終わりのお姉ちゃんが来たら、格好つけたくなったのか、帰れと強く言い出したので帰った。別にいいのに。

3月6日

 今日中に週刊アスキーに「ペンたまバイナリィ」を入稿しないといけないのに、ネット環境が悪くて手間取る。病院に着く頃には、すっかり遅い時間になっていた。

 肺の水を抜く管のほかに、ごはんを食べないせいで点滴まで追加されていた。痛々しいというより、煩わしそう。おいしくなくても食べればいいのにと言うと、「飯がまずいってことは、よっぽど体が良くねえってことだ」というので、「落ち込むとごはんっておいしくなくなるよ」と教えると、「人生でそんなこと一度もねえ。おかずがまずくても、白飯がまずいことなんかねえ。」と返してくる。幸せな人だ……。

 担当医にかけあうと、食べたいものを食べさせていいと許可が下りた。なんでもいいから食べてくれという思いで、おにぎりやアイスクリームを大量に買い込んだ。祖父はおいなりさんをひとつだけ食べてくれた。感動。

 3月11日

 角川ビルで撮影中に、お姉ちゃんからおばあちゃんがおじいちゃんの病院で転倒して骨折したと着信。夫婦って連鎖する。不思議。

3月16日

 余命3ヶ月という言葉を聞く。

3月18日

 webスナイパーに「とりあたまちゃん シーズン2」の第一回目を入稿。「商人(あきんど)の子は商人」というタイトルで、おじいちゃんのことを書いた。お気に入りの回。

 帰宅するとお見舞いに行った麻生から「姉さんがフリーランスになったって話したら、あいつはしっかりやるだろうなって言ってたよ」と言われる。真面目なことを言うおじいちゃんが珍しいのか、少し笑ってた。

3月21日

 突然の一時帰宅。前もって言ってくれればよかったのに、朝から晩まで個人撮影会だったので顔出せず。ダメ元で終わったあと、お姉ちゃんに電話したら、少しだけごはん食べて、テレビを見てから寝たらしい。

3月24日

 おばあちゃんの手術の付き添い。右手首の骨折なのに全身麻酔だった。少しだけ原稿を書いて、無事に目覚めたのを見届けてから、おじいちゃんのお見舞いへ。なんで別の病院……。移動中にお姉ちゃんから、放射線治療か、痛みを取り除くだけの治療にするか選ばないといけないらしいと言われる。どっちがいいかは調べないとわからないけど、とにかく気を落とすと寿命が縮まりそうだから、余命宣告されたことは祖父母ともに内緒にしようと話し合った。病室に着くと、疲れ切って私がベッドで眠ってしまった。

3月26日

 依然として食事をしないので、このままだと体力的に放射線治療はできないそう。調べると、癌は味覚を変えるらしい。気持ちの問題じゃなくて、本当にまずかったんだ。 

【4月】

4月2日

 「もう病院には居たくない」というので、退院。自宅療養へ。病院側ももうできることはないという事は伝えられなかった。起き上がると体のだるさを実感するのか、急に苛立ったようになり、ぶっきらぼうに当たり散らす。薬を飲んでまたすぐに横になった。

 心配になって様子を見に行くと、暗い部屋で「まじめにやれよ」と言った。目頭が熱くなる。泣かないように黙っていると、突然「一人暮らしの家はどこだ」と聞かれた。私が一人暮らしなどしていないことは、おじいちゃんも知っている。「まだ下北沢に住んでるよ」と答えると「あんなとこに家があったか」と言う。私をおじいちゃんが暮らした街。また驚かせようとしてるな、と思ったけど、次に「俺はいまどこにいるんだ」と言った時の表情は、いままで見たことがないものだった。

 お姉ちゃんが帰り道、「おじいちゃん、変なこと言ってたでしょ」という。副作用で幻覚や妄言の出る麻薬のような痛み止めを二種類も飲んでいるらしい。もうそんなことになっているなんて思いもしなかった。近所の踏切はよく事故が起きる。献花されている花束が枯れて地面に転がっていた。お姉ちゃんは、薬が苦いみたいだからと、スーパーで砂糖固めのゼリーを買って帰って行った。

4月9日

 DMMニュースR18の取材をしてから、終電でおじいちゃんの家に向かう。突然、原稿修正の依頼が入ったので、ネット環境を求めて駅前のネットカフェへ。結局、午前3:30にお姉ちゃんを起こして鍵を開けてもらう。朝早くから仕事なのに申し訳ない。 

4月10日

 お姉ちゃんが仕事で、おばあちゃんがリハビリの間、おじいちゃんを見守るために呼ばれて前乗りしたのに、おばあちゃんが帰ってくるまで眠りこけてしまって笑われた。何も起きなくてよかった……。

 今日は16時頃に先生が来て、おじいちゃんおばあちゃんに余命宣告をする。もう、おじいちゃんも自分の体に何が起きてるか気づいてしまっているだろう。けれど、改めて言うとなると、私もお姉ちゃんも心が重く、ふたりとも時間が近づくほど胃痛がして、お腹をさすっていた。しかし、先生が多忙で、17時になっても18時になっても来ず、21時から下北沢で取材があったのだけれど、午前中眠りこけてしまった罪悪感から、最後まで見届ける覚悟をし、初めて家族以外の人に事情を話して、遅刻するかもしれない旨を伝えた。

 19時、余命宣告。おじいちゃんは笑いながら「まあ三ヶ月しかないなら、そういうことでしょうがねえな」と言った。おばあちゃんも背筋を伸ばして、「喧嘩しながらでも家族で一緒にいましょう。それは素晴らしいことですもの」と言った。私とお姉ちゃんばかりが泣いていた。

 21時の取材には予定通り間に合った。言わなくても良かったなと思ってけど、メシ通の担当さんたちは、大人な対応をしてくれて本当にありがたかった。家族の涙が溢れる部屋にも、酔っ払いが溢れる金曜日の居酒屋にも、それぞれの“よさ”があると思う。

【5月】

5月5日

 お姉ちゃんから「麻実ちゃん(注:姫乃たまの本名)のCD聞かせたら、おじいちゃん喜んでたよ」と言われたのを思い出して、PENs+(注:弟が所属しているバンド)と、私の新しい音源を送る。私と麻生が小さい頃のDVDも発見したので、手紙と一緒に梱包した。渋谷のDJイベントで出番が終わってから、24時間営業の郵便局へ行った。

5月11日

 おじいちゃんが死んだ。どうして昨日、あのまま家まで行かなかったんだろう。家まで急ぐ。もう葬儀屋が来ていて、葬儀の値段の話をしていた。おばあちゃんは私の顔を見ると、みるみる涙目になって、「いなくなると、寂しくて」と言ってぼろぼろと泣いた。お姉ちゃんは「もっとお世話したかった」と言って泣いた。私は泣くまいと体に力を込めたら、変な風につってしまって、遺体になったおじいちゃんの横で悶絶しながら、ぼろぼろ泣いた。

 あのDVDを、おじいちゃんは観れなかったという。もっと早く送ればよかった。映像の中では、「おじいちゃん、嫌い!」の頃の私と、いじわるばかりしていた印象のおじいちゃんが、ものすごい笑顔で私と麻生を抱きあげていた。

 おじいちゃんの頬にキスをした。本当に冷たくて驚いた。葬儀屋がオプションでなんかしたんじゃないかと思うくらい、穏やかな笑顔だった。